ソラリス、交わらぬ他者

おはようございます。また天気が崩れてしまう…。

 

なかなか読み進めるのに苦戦した「ソラリス」をついに読破いたしました。いろいろあってな…。映画「惑星ソラリス」を先に観ていたので、そっちの印象が頭に残ったまま読みました。映画と小説で話が違う! 描きたいものがそもそも違うから、そうなるのも致し方無しという感じではありますが…。映画の方は、結構オリジナル要素が強かったんですね。原作との違いとかを見ていきながら、私の感想の方も書いていこうと思います。感想ってさ、やっぱりネタバレせずに言うの難しいじゃないですか。だから、この記事にもネタバレがあるんだよ。

 

冒頭の部分からかなり違いますね。映画では、ケルヴィンが湖で何かを触る、家族と会話するといったシーンがあります。その後、ソラリスについての放送を見てから宇宙ステーションに行くみたいな流れだったはず。ここが既にオリジナル要素だったんですね。導入からオリジナルとは、なかなか攻めますね。原作者のレムは、「惑星ソラリス」の出来に不満があったみたいですが、今なら納得です。原作の「ソラリス」には、ケルヴィンの家族が一切出てきません。最初のシーンで原作と違うものが映ると、自然と伝えたいメッセージも変わってしまいます。原作は、初っ端から宇宙ステーションに行ってるから、読んでて少し混乱してしまいました。私は、初めに宇宙ステーションが見えた方がSFっぽさを感じられるので、小説の方が好きですね。映画は、水の演出を見せたい感じがするからね…。こういうところは、若干アマゾンレビューに印象が引っ張られてしまっている。

 

ストーリーが初めから違うことに面食らってしまったものの、宇宙ステーション内のストーリーは大体同じだと分かりました。細部を見ていったら結構違うんだけど…。原作では、合間合間にソラリスについての記述、いわゆるソラリス学が頻繁に出てきます。「惑星ソラリス」と「ソラリス」の大きな違いは、ソラリス学にあるといっても過言ではないんじゃないでしょうか。執拗なまでのソラリスの描写、ソラリスについて長い歳月をかけ、ある時は犠牲を出してもなお調査や研究をする学者の姿が作中の本に記されています。私は、全く意識してなかったのですが、訳者解説にはこの本の中の本という記述の仕方は、SFのメタフィクションにあたるらしいです。メタ要素といえば、もっぱら第四の壁を越えた読者に語りかけるものばかりだと思っていました。こういうタイプのものもメタフィクションなんですね。

ちょっと話が逸れましたが、ソラリス学は映画でそれほど取り上げられておらず、そのため原作でこれを詳細に書き記すことが大きな違いを生んでいます。映画では、最初の放送にパイロットの話が出てきたくらいだったかな。ミモイドとか長物とか映画にあったかな…。あったとしても、あまり印象に残ってないのでそういうことでしょう。このソラリス学、妙にリアリティーがあって面白いんですよ。いろんな架空の学者や仮説が出てきて、ありそうな感じがすごい。一方、映画の展開を知ってる身からすると、冗長と捉えたくなってしまうのも分かります。原作には、これがあるかないかで意味が変わってくるので、全く冗長ではないんですよね。知った風な口聞いてますけど怒らないで…。

 

映画は、人間の内面がメインになってる(と思う)んですが、原作は未知の生命体に対するコンタクトがメインになってる(と思う)んです。別に、私がこの考えに辿り着いたわけではないので、そんな強くは言い切れない。原作には素晴らしい訳者解説がついているので、そっちを見た方が早いまである。ただ、両者を見る限りでは私も同じような感想を抱かざるを得ません。映画は、ハリーとケルヴィンの関係に結構焦点を当ててるイメージです。出てくるのは、人間と人間を模した何かがほとんど。あと水。原作の方はというと、ハリーの記述よりソラリスに対する記述の方が大きなウェイトを占めています。ケルヴィンが何かしら本を手にするたびにソラリス学が始まります。とにかく、ソラリスが、あの海が一体どのような存在なのかを知らせたくてしょうがない感じが伝わってきますよね。人間対人間か、人間対未知の生命体かで描く内容が違えば、当然表現者同士の口論は避けられないでしょう。「惑星ソラリス」は、単純にソラリスの映画化したものではなかったことがようやくわかりました。

 

映画との比較ばっかりになってますね…。私が、小説を読みながら思ったことも書いておかねばなりません。沼野充義訳「ソラリス」ですが、思ったより読みやすいんですよ。いや、そりゃ読みにくい部分もあるにはあるけど、あの映画から受けた印象の割に読みやすいんです。タイタンの妖女も結構読みやすかったので、日本の翻訳家の方が優秀なんでしょうね。また、主語が大きい。こうやって適当なことばかり言う人間のことを信用してはいけませんよ。あと、文中に感嘆符が多かったなっていう印象。確かに多かった。!!!とかありましたからね。そんなに? ってくらい感情が出てましたね。どうやら、これは翻訳前と同じらしいです。感嘆符だけでなく、ケルヴィンが狼狽えたり興奮したりする場面が多くて、こんなに感情的な人間だったかなと不思議に思ったくらいです。映画の印象に引っ張られると、イメージとの乖離で脳がバグる。

 

あと何か言うことあったかな? 映画と原作で伝えたいニュアンスが明らかに違うとはいえ、ある程度のストーリーは一致してるので、ストーリー自体にそこまで深い感想はない、というか出てこないんですよ。あのストーリーを下敷きにして、よくもまあ違うメッセージ性を持たせることができたなって感じですよね。途端に上から目線になっていく。ソラリス学は多少端折るとしても、普通になぞったらソラリスとのコンタクトがメインになるはずなんですけどね。逆に考えると、解釈次第で全く違った見方もできるってことです。レムは、おそらくケルヴィンの内面を映す鏡としてのソラリスが印象に残ったから、あのような映画を撮ったんだと思います。私は、ソラリスが対称体やミモイドを形成する描写やケルヴィンが不具・欠陥を抱える神について語るところが深く印象に残っています。「ソラリス」から何を読み取るかは、まさに人次第であり、ある意味ではこの作品自体が鏡のような意味合いを持つのかなと思ったり思わなかったり。

 

ソラリス」もALTER EGOエスから教えてもらいました。たまたま、先に映画を見ていたこともあって、紹介された他の作品より読みやすかった気がします。まだ見ぬ知的生命体は、一体どんな見た目をしているのかと問われました。皆さんなら、どのような姿を想像しますか。ソラリスの海という知的生命体のような何かを見せられた以上、人間が予想だにしない見た目のやつがいると信じるしかありません。最近は、グレイタイプの宇宙人もあんまり取り上げられないなあ。

それに加えて、記憶に刻まれた人が出てくるとしたら誰かという問いもいただきました。正直、誰が出てくるのかまったく予想つかないですね。こいつだ! ていうのがいないんですよ。これから先、そういう人が出てきたりするのかな。もし、そういう人がいたらソラリスに弱みを握られてしまうので、前もって記憶を消します。あ、記憶喪失の人がステーションにいたら、誰がコピーされて出てくるんでしょうね。自分かな? これ地味に気になるな…。

次に読む本は、順列都市に決まりました。どうも長編っぽいので、読み終わるのに時間かかるかもしれませんね。まあ、気長に読んでいきましょう。

 

今回の感想は、大体こんな感じ。これ書いてる時、めちゃくちゃお腹空いて手が震えてたんですよ。ビスケットとかパンを貪って事なきを得ました。やっぱり米を食べてないから、こういうことになるのかな。それとも、頭使いすぎて糖分が足りてないのかしら。皆さんは、しっかりご飯を食べてから、ブログ記事を書きましょうね。それでは、おやすみなさい。ちゃんと歯を磨いてから寝るんですよ……。

 

今日のご飯 ツナマヨ焼きそば